院長コラム

生殖免疫の話

2026年01月16日

私の学位論文は、「妊孕現象における免疫学的考察」と言う雲を掴むような題目でした。(大学の非常勤医員だった1993年当時は、大学院にいかなくても、原著論文の筆頭であれば、医学博士の学位を得ることができました。)具体的には、お父さんの遺伝子が半分含まれる胎児が、なぜお母さんの子宮の中で拒絶されずに育ち、無事生まれてくるのか?と言う疑問です。この答え、今も完全には解明されていませんが、およそのことはわかってきています。研究のヒントは、マウスを使った癌細胞の移植と拒絶の実験でした。(下図)栄養のあるかぎり無限に増殖する癌細胞も、宿主の種が違うと、生着することができず拒絶されてしまいます。(異種の癌細胞を受け入れられるヌードマウスは、それゆえ貴重な実験動物なのです。)ところが、妊娠中のマウスは、父親由来の癌細胞を受け入れることができるのです。そして 妊娠が終わると、その癌細胞は、異物として拒絶される。寛容(受け入れ)と その正反対の拒絶。両方とも進化の過程で獲得された母性の神秘です。母親の胎内で一体何がおこっているのでしょうか。

日本産婦人科医会 研修ノートNo99(2017)流産に関するトピックス

上の図にあるように、黒いオスマウスの子どもを宿した白いマウスは、黒いマウス由来の腫瘍細胞(がん)を生着させますが、それは父親の抗原(異物として認識するための印)への母親の細胞性免疫反応が低下しているためです。免疫抑制剤のように、全身の免疫反応を低下させて、拒絶を防ぐ方法はありますが、それは細菌やウイルスの感染機会を増やし, 母体にとっては危険な選択なのです。妊娠中の母親は、むしろ異物への免疫系が活発化しているという事実もあります。おそらく、この免疫の抑制機構は、母親の組織(血液)と直接接する胎盤の絨毛膜で局所的に生じている可能性が高いようです。1990年当時は、免疫を抑えるT細胞として、多田富雄先生が提唱された「抑制型T細胞」が作用しているいうテーゼがありました。でも。昨年末のコラムで述べたように、世界中の学者が、血眼で探しても、その正体はわかりませんでした。やがて、昨年のノーベル賞を受賞された阪大の坂口先生の「制御型T細胞」が、免疫寛容にも大きな役目を負っていることがわかりました。妊娠期間中、母体内では、胎児が発現する父親由来の抗原を特異的に認識する「制御性T細胞」が増殖し、この細胞によって母体の胎児に対する免疫応答が抑制されていることが実証されたのです。(Nature 2012年10月4日号)局所で寛容を学んだ制御型T細胞は全身に影響を及ぼし、父親の抗原をもつ細胞を異物と見做さず、しかもその影響は、次の妊娠まで記憶されると言うわけです。

(Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 1 DOI: 10.1038/ndigest.2013.)
  生物進化の歴史からみると、胎児が持つ「父親由来の抗原」に母体の免疫系が曝露されるという問題は、比較的新しいものです。というのも、ほとんどの動物は卵生なので、そんな問題は生じなかったからです。一方で、有胎盤類が獲得した妊娠の仕組み、すなわち胎児が胎盤によって母体の子宮壁に物理的に付着する仕組みは、多くの利点を備えていました。母体の血液循環を介したガス交換や栄養の摂取および老廃物の除去が可能であるため、胎児の成長に最適な環境を整えることができるからです。課題は、半異物である胎児の「着床」を妨げないことですが、そのために全身の免疫応答を抑制することは、先ほど述べたようにリスクが高すぎます。母体が、感染症にかかっては、元も子もないですからね。これを回避するために、有胎盤類は、上の図のような局所的かつ特異的な免疫抑制機構を進化させる必要があったわけです。それでは、胎盤の進化は。具体的にはどのような形で起こったのでしょうか。それには、私が留学中に研究していたレトロトランスポゾンが関係しているのです。コロナのようなRNAウイルスのパンデミック(もしかするとRNAワクチンも?)が、生物の進化に与える影響ーー、研究者にとっては、とてつもなくロマンのある話です。機会があれば またそれについて 書いてみたいと思います。
哺乳類の生殖器官と胎盤の多様性(季刊「生命誌」81号より

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